icon-sns-youtube icon-sns-facebook icon-sns-twitter icon-sns-instagram icon-sns-line icon-sns-tiktok icon-sns-etc

薬局DXニュース解説

2025.10.21

処方箋の裏側で起きていた危機――ペニシリン系抗菌薬、30年ぶりの国内生産再開が薬局に問いかけるもの

  • facebook
  • twitter
  • LINE

毎日の調剤業務で当たり前のように扱っているペニシリン系抗菌薬。その原料がほぼ100%中国依存という現実を、私たちはどれだけ認識していただろうか。2019年の供給危機で手術延期が相次いだあの混乱から6年、Meiji Seikaファルマが約30年ぶりに国内生産を再開する。この動きは単なる製造拠点の回帰ではない。調剤室の棚に並ぶ一錠一錠の背後にある脆弱なサプライチェーン、そして薬剤師が果たすべき新たな役割を浮き彫りにしている。

気づかぬうちに進行していた「依存」
薬局の棚を見渡せば、アモキシシリンやアンピシリンといったペニシリン系抗菌薬が必ず目に入る。中耳炎の小児患者、術前予防投与、歯科領域での処方――日常診療に欠かせないこれらの医薬品が、実はきわめて脆弱な供給網の上に成り立っていた事実を、私たちはどこまで実感していただろうか。
ベータラクタム系抗菌薬の原料・原薬は、現在ほぼ100%を中国からの輸入に依存している。この数字自体は以前から知られていたが、それが現実の危機として顕在化したのが2019年だった。中国の製造トラブルによってセファゾリンの供給が長期間途絶え、全国の医療機関で手術延期が相次いだ。当時、患者への説明に追われた薬剤師も少なくないはずだ。「なぜこの薬がないのか」という問いに対し、私たちは十分な答えを持ち合わせていただろうか。
この供給危機は、医薬品の安定供給という概念が、もはや品質管理や在庫管理だけの問題ではないことを示した。地政学的リスク、経済安全保障という新たな視点が、調剤室の日常業務にまで直結する時代になったのだ。

30年の空白を埋める挑戦
Meiji Seikaファルマが12月から生産を開始するのは、ペニシリン系抗菌薬の原料である6-アミノペニシラン酸(6-APA)だ。岐阜工場では1971年から1994年まで製造を続けていたが、中国とのコスト競争に敗れ撤退を余儀なくされた。それから30年、政府の経済安全保障推進法に基づく約550億円の支援を受け、ついに国内生産が復活する。
注目すべきは、この再開が単なる設備投資だけでは実現しなかったという点だ。当時の技術者約10名が今もなお現場に残っており、彼らの知見なくしてこのプロジェクトは成立しなかった。微生物発酵によるペニシリン生産は、タンク内の栄養分や酸素濃度を絶妙にコントロールする必要があり、まさに職人技の領域だ。「あと5年遅かったら技術継承という大きな課題ができていた」という工場長の言葉は、この国産化がいかにぎりぎりのタイミングで実現したかを物語っている。
しかし、技術的な再開が可能になったとしても、経済的な持続可能性という大きな壁が立ちはだかる。国産品に切り替えた場合、最終製品のコストは3〜5倍に膨れ上がる試算だ。この現実が、今後の薬価制度や医療経済全体に投げかける問いは重い。

薬剤師が直面する新たなジレンマ
国産化の動きは、薬局現場にも複雑な影響を及ぼすことが予想される。まず考えなければならないのは、後発医薬品使用促進政策との整合性だ。日本の医療費抑制策の柱として後発品の使用が推奨されてきたが、抗菌薬の薬価は既に低く抑えられており、後発品メーカーにとっても魅力的な市場ではなくなっている。そこに円安による原薬高騰が加わり、製造中止を選ぶメーカーが増加している。
国産化が進めば、コスト増を反映した薬価設定が避けられない。しかし現行の制度下では、より安価な輸入原料を使った製品が市場に残る可能性もある。その場合、薬剤師は患者や医師に対し、どのような説明を行うべきだろうか。「国産品は高いが供給の安定性が高い」という論理は、日々の窓口業務でどこまで理解を得られるだろうか。
また、在庫管理の観点からも新たな判断が求められる。複数のサプライチェーンを持つことはリスク分散につながるが、薬局の限られた棚スペースと資金繰りを考えれば、すべての選択肢を保持することは現実的ではない。どの製品を、どの程度の在庫量で保持するか――この判断には、従来の経験則に加え、経済安全保障という視点が必要になる。

調剤室から見える「レジリエンス」の本質
今回の国産化プロジェクトが示唆するのは、医薬品供給におけるレジリエンス(強靭性)の本質だ。効率性とコストを追求するあまり、私たちは知らず知らずのうちに単一の供給源に依存し、システム全体を脆弱にしてきた。グローバル化した製薬産業において、これは日本だけの問題ではないが、島国という地理的条件を持つ日本にとって、その影響は特に深刻だ。
「中国が原薬を国外に輸出しない措置をとった場合、国内では在庫がゼロになり、感染症治療に大きな支障をきたす」という専門家の警告は、決して大げさではない。この可能性を念頭に置きながら、日々の業務に当たる必要がある。
同時に、レジリエンスの構築にはコストがかかるという現実も直視しなければならない。国は「特定重要物資」として4つのベータラクタム系抗菌薬を指定し、製造設備への支援を決定した。しかし、設備が整っても、事業として継続できなければ意味がない。政府による買い上げ制度や薬価の見直しといった長期的支援がなければ、この試みは再び頓挫する可能性がある。

薬剤師に求められる新たな役割
この状況下で、薬剤師には何ができるだろうか。まず必要なのは、医薬品供給に関する情報感度を高めることだ。単に「在庫がない」という表面的な事実だけでなく、なぜ供給が途絶えたのか、その背景にある構造的問題は何か――こうした視点を持つことで、患者や医師への説明にも深みが増す。
また、地域医療における抗菌薬の使用実態を把握し、適正使用を推進する役割も重要性を増している。AMR(薬剤耐性)対策という観点に加え、供給制約という新たな理由も加わった今、不必要な抗菌薬処方を減らす取り組みは一層の意義を持つ。処方提案や疑義照会の場面で、供給リスクを考慮した代替薬の選択肢を示すことも、これからの薬剤師には求められるだろう。
さらに長期的には、医薬品政策への関心と発信が必要だ。薬価制度、後発品推進策、経済安全保障――これらは一見、調剤室から遠い政策論議に思えるが、実は毎日の業務に直結している。薬剤師会や各種団体を通じて、現場の声を政策形成に反映させていくことが、持続可能な医薬品供給体制の構築につながる。

「当たり前」を支えるもの
岐阜工場に残された高さ11メートルの巨大な発酵タンクは、かつて「東洋一」と称された日本の抗菌薬製造技術の象徴だ。それが30年の沈黙を破って再び稼働を始める背景には、技術者の執念、政府の危機感、そして何より2019年の供給危機という痛い教訓がある。
毎日、何気なく棚から取り出すペニシリン系抗菌薬。その一錠が患者の手に渡るまでには、国際政治、経済安全保障、技術継承、そして多くの人々の努力が関わっている。「当たり前」に薬が手に入ることが、実は当たり前ではないという認識――この気づきこそが、これからの薬剤師実務の出発点になるはずだ。
国産化は始まったばかりだ。富士フイルム富山化学は2028年に原薬の量産を開始し、大塚化学は2030年までに供給体制を整える計画だ。この長い道のりの中で、薬局・薬剤師がどのような役割を果たせるか。その答えは、私たち一人ひとりの意識と行動にかかっている。
調剤室の小窓から見える風景は変わらなくとも、その背後で動く世界は確実に変化している。30年ぶりのペニシリン国産化という歴史的転換点に立ち会う今、私たち医療者に求められているのは、より広い視野と、より深い洞察力なのかもしれない。
  • facebook
  • twitter
  • LINE

RELATED